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縄文遺跡が関東平野に集中し、そして一気に減少したのはなぜか。

   

関東平野は公共事業や宅地開発などが多かったために、
たまたま遺跡の発見の機会が多かっただけだという意見もあります。
確かに発見の機会が多かったのは事実でしょうが、
もともと縄文集落が多く集まる条件があったことは確かです。

狩猟生活を営む縄文人にとっては食材の確保が絶対条件で、
より食材の豊富な地域に人々が集まったのは当然のことなのです。
関東平野に多くの人が集中したのは、
関東平野が他の地域に比べて食材の確保に有利だったからに他なりません。

では関東平野の何が食材の確保を容易にしたのでしょうか。

関東平野には利根川と多摩川と言う大型河川が流れ込み、
鮭が遡上していたためにもともと狩猟生活には有利な場所でした。
鮭だけでなくアユやマスなどの淡水魚も多く生存していたはずです。

さらに生活環境を向上させる出来事が起きました。
それが縄文海進です。
縄文海進によって陸地奥まで海が入り込み、
関東平野に大きな湾が作られたのです。

利根川と多摩川の両河川から流れ出た大量の有機物のために、
大量のプランクトンが発生したため多くの海水魚が入り込み、
海の幸と川の幸の両方が得られるという理想的な環境が作られたのです。

恐らく取り切れないほどの獲物が手に入ったはずです。
これが縄文中期に遺跡が関東平野に集中している理由です。

  *縄文海進が起こって多摩川の上流から下流に向かって、
   人の流れがあったことが確認されています。
   これは海の侵入によって海の幸の得られる下流部の方が、
   食材が豊かになったためだと考えられます。

ところがその後縄文海退が起こり湾の縮小が海の幸の減少を招きます。
これは縄文後期の遺跡の減少がこの事実を物語っています。

縄文晩期になるとさらなる悲劇が関東平野を襲ったのです。

富士山の噴火の形態が変わったのです。
それまで溶岩噴出だったのが爆発型噴火に変わったのです。
溶岩噴出は火口から溶岩が流れ出すだけですので、
被害は富士山山麓周辺の限定的なエリアだったのですが、
爆発型に変わったために噴煙が空高く舞い上がり、
大量の火山灰が関東平野の全域に降り注いだのです。

これによって河川の汚染だけでなく東京湾も汚染が広がりました。
鮭の遡上が無くなるだけでなく淡水魚も海水魚も住めなくなり、
一気に関東平野の豊かな環境が失われたのです。

生活が成り立たなくなった縄文人は、
食材を求めて他の場所に移住せざるを得なくなったのです。
縄文晩期に関東平野の縄文遺跡が激減しているのは、
正にこの事実を証明しているのです。

関東の縄文人が何処に移住したのかは不明です。
火山灰の届かない遠方とも考えられますが、
私は両河川の上流部である可能性が高いと考えています。
上流部は火山灰が降ってもすぐに浄化されて淡水魚は生き残ります。

上流部にも縄文初期の遺跡が多く見つかっています。
むしろ縄文海進によって住民が下流に移動した証拠さえあるのです。
富士山の噴火で下流の汚染が広がったため上流部に戻ったのではないでしょうか。

縄文遺跡は減少したのであって全く無くなったわけではありませんので、
下流の集落の消滅が全体の遺跡の減少となったと考えられるのです。

弥生時代になって関東平野にも再び多くの集落が作られるようになりましたが、
時の経過によって自然が回復して両河川に鮭が再び遡上するなど、
再び食材が容易に手に入るようになったためと考えられるのです。

関東地方は西日本に比べて稲作の遅れにより弥生文化の発達が遅れたと言われています。
一つには両河川からの恵みだけで生活が成り立ったために、
稲作などの栽培の必要性に迫られなかったことが考えられますが
もう一つの理由としては、
関東平野は葦の生息の境界地ですのでその仲間である稲の栽培に適しているとはいえず、
西日本に比べて稲作が品種改良されるまで行われなかったのではないでしょうか。
これが関東地方の弥生文化の遅れの原因になったと考えられるのです。

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