情報メディア発信局

様々な情報コンテンツを発信していきます!

北魏も日本人が作った国である可能性はないのか?

   

高句麗が日本人の作った国であるという証拠はいくつか見つかっています。

例えば、

(1)縄文海進で西日本は人口が激減したことが分かっており、
  その時期に朝鮮半島で櫛目文土器が出土し始めていますので、
  九州の縄文人が朝鮮半島に移り住んだと考えられます。

(2)アメリカの言語学者が高句麗語は日本語のルーツである。
  と主張したほど日本語と高句麗語は近かったようです。
  特に数字は4つ一致しておりこれは偶然ではあり得ないそうです。
  日本人でない国が日本語を使っていたはずはありません。

(3)戦前京都大学の梅原末治先生が高句麗の調査をしたとき、
  南方でしか見られないカリエン家屋を見て驚いたという記録が残されています。
  これは硫黄島で起こったアカホヤの大噴火と縄文海進によって、
  南九州の縄文人が移り住んだ可能性を示唆していると言えます。

(4)鹿児島の歴史研究家である加治木義弘氏によりますと、
  歴代の高句麗王の諡号(戒名)に鹿児島と沖縄の地名が付けられているそうです。

もともと朝鮮半島は、
韓国国立中央博物館から出されていた古代年表によりますと、
約BC10000年から約BC5000年の間で遺跡が見つかっておらず、
約BC4000年頃から突然櫛目文土器が出土し始めているのは、
九州から縄文人が移り住んだと考えるのが自然でしょう。

以上のような根拠から、
高句麗は日本人の国だった可能性が高いと言えるはずです。

さて本題の北魏の正体ですが、
私が特に高句麗と北魏は同族だったのではないかと考える理由は、
お互いに争った形跡より、
朝貢や冊封といった平和的な関係が結ばれていることです。
全く異なった民族同士が国境を接すると、
悲惨な戦いが起こる方が自然な気がします。
実際のところ新羅や百済とは戦っているのです。

遺伝子で見ましても、
高句麗が日本人で北魏が中国人とすれば遺伝子の違いが出るはずですが、
両地域のGm遺伝子はほとんど同じなのです。
これは両者が同じ人種だったことを表しているのではないでしょうか。

南九州(薩摩)の縄文人が朝鮮半島に渡って後に高句麗を作り、
直接中国大陸に渡って黄河流域に住み着いた縄文人が後に北魏を作ったと考える方が、
その後の北魏と高句麗の関係を見た時、
可能性として高いと思われるのです。

  *火山噴火と縄文海進で縄文人が九州から逃げ出したのは約7000年前(BC5000年)です。
   北魏や高句麗の時代は3、4世紀、すなわちはるか昔に九州から縄文人は渡っていたと言うことです。
   すなわち元は同じ日本人(薩摩人)だった可能性はないかと言いたいのです。

私の個人的な感想ですが、
日本の歴史学者はすべての先進的な文明は大陸から伝わったという、
すべてが中国の方が先という固定観念が強すぎる気がします。

私は遺伝子などから得られる情報を元に、
従来の固定観念に捕らわれずにいろいろ調べますと、
アジアの文明は日本が起源であった気がしています。

縄文文化は中国よりはるかに古くしかも高度であったことが、
最近の遺跡の発掘調査で明らかになってきているのです。
古代の歴史を根底から考え直してみる必要性を感じています。

   *鹿児島の上野原遺跡では約8000年前のツボ型土器や耳飾りが見つかっており、
    高度な文明があったことが分かっています。
    ブリタニカ国際大百科事典によりますと、
    中国の黄河文明は約6800年前からとなっており、
    上野原よりも1000年以上も後なのです。
    最近の調査で沖縄ではもっと古い文明があったことが明らかになっています。


スポンサーリンク

 - 未分類